党首 小野寺こうき忠臣蔵義士新党
結党までの『人生の足跡』

◎我が人生は波乱万丈なり  

 

我が人生は、喜びも悲しみも人の100倍。山あり谷ありの振り幅の大きい、あたかもジェットコースターのような上下の急カーブの円を描き、その都度、命がかかった人生であった。

79年の歳月は同時に日本社会の激動と歩音を共にして歩んできた歳月であった。

今回の結党への発意は、私の79年の経験からたどり着いた必然の姿である。

ささやかですが、私の半生の足跡を紹介します。

 

◎満州からの引き上げ

 

「移住」というのが私の人生のキーワードです。

私は戦前の満州国吉林省で生まれました。しかし、私が1歳9か月の歳に日本国は敗戦。父はシベリア送りの途中で脱出し、残していた妻子の元に戻り、家族6人で中国の混乱の地を彷徨いながら、やっとの思いで長崎県佐世保港に到着しました。

しかし、当時、今のコロナのような疾病が蔓延し、日本に到着したにもかかわらず、1ヶ月の船内待機を余儀なくされました。当時の一連の逃避行の帰国体験は、後日、父母と3名の姉たちから聞かされました。

この帰国の寄港先が佐世保というのも深いものがあります。

日本は今大戦では人類史上初めて広島と長崎の2つの地域に原爆が投下され、何十万という人々が一瞬に命を失いました。

原爆が投下された長崎と隣の佐世保に帰国したのも深い運命を感じます。

日本政府は、私が生まれた当時の満州国をパラダイスの新天地と謳い、多くの日本国民の移住政策を推し進めました。

しかし、敗戦に際しては、逆に、多くの日本国民が帰国できずに、満州やシベリアの土地に消えていきました。

満州に入植した日本人にとって、敗戦時の故国日本が最後の生き残るための移住先となりました。

 

◎福島原発の教訓

 

13年前の東北太平洋沖大震災は私たちに衝撃を与えました。そして、それ以上に私たちを震撼させたのは、福島原発のメルトダウン事故でした。

不幸中の幸いでメルトダウンは、最悪な結果にはなりませんでした。

最悪な結果とは、メルトダウンが起こると首都東京を始め、関東の人々は10分後に全員致死するということです。

 

この福島原発の事故で近隣の町村の人々は避難を余儀なくされました。一時的ではありますが、多くの人々が北は北海道から南は沖縄まで、すべての都道府県への移住していきました。

 

私は当時、靖国神社前を車で走行中に地震に遭いました。

東銀座の自宅に戻りますと仏壇やテレビや大きなロッカーまでが倒れ、これには大変驚きました。急いで車に寝具を積み、妻子を乗せて神奈川県湯河原の別荘に向かいました。しかし、メルトダウンのテレビ報道を見て関東一帯の崩壊を感じ、さらに逃げなければと、東名入り口にたどり着き、車で九州方面へと南下しました。

そして妻子を下関から中国青島行きの船で脱出させ、私自身は、会社や社員の家族を思い、東京へととんぼ返りで戻りました。

その時の経験から、緊急時には避難先となる国があり、脱出のための入国ビザなどが必要であるかを痛感させられました。

 

◎34年間続けてきた義士行列と

初めての銀座歩行者天国のイベント

 

私は平成元年から34年間、高輪泉岳寺の赤穂義士の御霊を供養するための義士行列を主催してきました。

赤穂事件は今から320年前、元禄十五年に起こりました。主君・浅野内匠頭(長矩)への忠義から大石蔵之助を含む四十七士の義士が敵討ちを果たすという史実です。

四十七士の義士は無事に主君の無念を晴らしましたが、その責を負って52日後に全員切腹しました。

この 四十七士の義士の忠義の心は、300年の間、庶民に語り継がれ、今日においても私たちの心の深層に刻まれております。

私が義士行列を始めましたのは、この四十七士の義士の主君に対する忠義の心を忘れずに国民一人一人が持ち続けてほしいと願ったからです。

主人に対する忠義はすべての人を大切にする心に通じる人間としての有り様の一つです。

私はこの思いを絶やさずに伝えるために、34年間、風雪の悪天候の中もひたすら義士行列を続けて参りました。

令和5年からは、更に四十七士の義士が吉良邸に討ち入りした日の義士行列だけではなく、全員が切腹した2月4日の日をもっと多くの人に知っていただき御霊を供養するために切腹供養の義士行列を始めました。

本年は初めて築地警察の許可をいただいて、銀座の歩行者天国でも、義士行列を行わせていただきました。

こういったことはささやかな活動ですが、社会のため、人のためになればとの思いで義士行列を続けています。

◎都民に喜んでいただくために

浜離宮イベントを続けてまいりました

 

徳川将軍家が代々所有していたのが、江戸を代表する大名庭園である「浜離宮恩賜庭園」です。

明治以降の歴史の中で、いろいろな使われ方をしましたが、現在は、東京都が管理する公園となっています。

浜離宮では四季の花々の公開とともに、さまざまなイベントを開催し、利用していただいております。

私は一人でも多くの都民の憩いの場所として浜離宮を利用していただくことを願って「NPO東京臨海地域開発研究所」を設立し、長年、理事長をさせていただいております。

この財団では毎年正月三が日に「鷹匠の伝統技法」と「合気道の演舞」を行い、新春の風物になっています。

鷹匠の技法と合気道の演舞は、日本の伝統的な文化であり、武道です。こういったイベントを通じて、都民や日本国民の皆様方が日本の伝統文化を見直し、愛していただければと願って活動をしています。 

 

◎文化建設會の役割と活動

 

戦後間もない昭和21年に外務省の9番目の認可で設立されたのが当文化建設會です。

平成12年に『一般財団法人文化建設會』に法人名称を新たにし、私小野寺紘毅が引き続き「理事長」を務めさせていただいております。

今大戦では日本国民だけでも300万人、世界全体では5000万人の方が亡くなり、それぞれの故国は廃墟と化してしまいました。

 本会は、「恒久の平和のために文化建設を成すことこそ、日本文化の唯一の使命にして、まさに全国土をあげて全人類の福祉増進に寄与し、全生命をもって文化復興に最善の努力を傾注すべきなり」という趣旨の下に活動してまいりました。

 この活動の一環として、戦後70年目に初めて、今大戦で18万人の日本兵が戦死した旧ビルマ国、現在のミャンマーのヤンゴンにおいて、戦後2015年2月26日に仏教と神道とキリスト教のそれぞれの祭式で盛大な慰霊祭を行いました。

慰霊祭には、日本国から多くの要人や著名人の列席をいただきました。

また、近未来の日本国を背負って立つ人材の育成を目的に『財界二世学院』と『東京イベント学院』を創設しました。

 この文化建設會には日本国のさまざまな分野から理事就任をお願いし、協力をいただいて活動しています。

 

◎財界二世学院、東京イベント学院の設立と活動

 

平成元年、今から36年前、当時、高度経済成長期が一段落つき、安定期を迎えた時、経済界の主たる課題が「後継者を育成する」ということでした。

今後の日本の経済界の発展はいかに後継者を育成できるかにかかっているというのが、当時の経済界の重鎮の一致した考えでした。

私は、こういった経済界の皆様方の思いを実現すべく「財界二世学院」と「東京イベント学院」を設立し、人材育成に取り組みました。

この財界二世学院と東京イベント学院からは、多くの優れた人材が羽ばたいております。

その後、バブル崩壊の荒波の中で、設立の目的を終えて、現在は休眠となりました。 

ただ、今日、新たに中小企業の事業承継、後継者の育成の重要性が叫ばれております。

再度、企業の後継者育成が急務な課題となっております。

 

◎ミャンマーとのご縁―ミャンマーの救済と交流の促進

 

旧名称ビルマ、今のミャンマーは、第二次世界大戦では、インパール作戦で約3万人、ビルマ全体では18万人の日本兵の尊い命が失われ犠牲になった国です。

私たち日本人には忘れられない小説があります。『ビルマの竪琴』です。

1946年、戦後間もない1年目にして、作家竹山道夫が旧ビルマでの戦死者の惨状を描いたもので、後に市川崑監督によって2回も映画化されました。

「ビルマ僧の格好で日本への帰還をめざして道すがら見た光景は、葬るものもいない蛆や蟻がたかった日本兵の遺体の山。水島は英霊を弔わずに一人だけ帰国することはできないと、出家してこの地に残る」というあらすじであった。

これには戦後の日本人は皆涙しました。

私は、いつの日かミャンマーで亡くなられた英霊を日本人の一人として弔うことと、戦渦に巻き込んでしまったミャンマーの方々への償いの気持ちを何らかの形で恩返しをしなければという思いで、事業家として日々のビジネス活動を行ってきました。

そういった私の気持ちが天に届いたのでしょうか。ある日、ミャンマー大使館の敷地購入の話が舞い込んできました。

私の周りからは反対されましたが、少しでもミャンマーの皆様に恩返しができればと購入を決意しました。

 

私はミャンマーの国と国民に対する償いと報恩の気持ちから、ミャンマー大使館を購入する決意をしたのです。

一刻も早く日本国の英霊のための慰霊祭を行うとともに、戦火に巻き込んでしまったミャンマーの国民の皆様方に償いと報恩のための支援をしなければならないという願いです。

 

本来なら、こういった行為は、日本国と日本国民全体のやるべきことではありますが、日本がやらなければ一国民としての私はやらなくても良いということにはなりません。

 

その後ミャンマー政府からヤンゴンに土地を借款させていただきホテルを建築しました。

このホテルも、国連のWIO、ユニセフ、ILO、UNAIDS等7つの国連機関の活動と宿泊所として提供させていただきました。

そして、ミャンマーの土地でお亡くなりになられた英霊を弔うために、私が理事長をしている「一般財団法人文化建設會」主催で仏教、神道、キリスト教での合同の慰霊祭を行わせていただきました。日本からも政財界の多くの方々に列席いただきました。

戦火に散った尊い御霊に少しは哀悼の気持ちを伝えられたのではないかと思っております。

◎小松左京原作の『日本代沈没』という映画から受けた衝撃

 

1973年に発表された小松左京の『日本沈没』という小説はベストセラーになりました。

そして、それを脚本として映画『日本大沈没』がヒット作となりました。

日本の国土が水没していく光景には、誰しも衝撃を受け、いつの日かそういった事態はやってくるという感情を私たちに抱かせました。

日本大沈没の映画の最後には希望と救いが描かれていました。

日本国民が他国へ集団で避難し移住する姿でした。

私は満州からの引き上げ者でありますから、こういった民族大移動が実際に起こるだろうという確信を持っていました。

私は、それからの人生というのは、いつ日本沈没のような事態がやってくるのかも知れないということに注視してきました。

阪神淡路大震災、新潟地震、北海道南西地震、東北太平洋沖地震、熊本地震と各地で地震が起こるたびに日本沈没のカウントダウンが着実に近づいているということを実感してきました。

そして、こういった危機感に拍車をかけたのが東北太平洋沖地震に伴う福島原発のメルトダウン事故でした。

この事故は、結果的に、日本国を崩壊に導くものにはなりませんでしたが、それも偶然に過ぎません。こういった事故は、生きるか滅びるかの二者択一しかありません。ある種のゲームのようなものとなっています。

今回の福島原発の事故は、生き残る方向へと針が向いただけです。

しかし、この生き残りという運命においてでさえ、多くの人々が、日本全国に避難して移住していったのです。

◎日本人を救済するための東アジア・南アジア大移住プロジェクト

 

私の日本人大移住への志しは、51年前に見た小松左京原作の『日本沈没』の映画が原点です。

その映画の衝撃的なシーンは日本国民、日本民族が生き残るためには日本を脱出して、諸外国へ移住するということでした。

この移住には移住先が必要であり、移住する国々の方々との協力がなければなりません。

今回立ち上げました「東アジア・南アジア移住地委員会」は具体的に想定できる日本の近隣諸国の方々と協力する団体であり、活動です。

この団体は、単に、移住に際して活動するだけではなく、日ごろからのさまざまな人的交流、文化交流を想定しております。こういった活動を通じて、来るべく日本沈没に対して重要な貢献を果たせればと願っております。

 

◎マンション王としての私の全盛期とバブル崩壊

 

私は20代に父の建設業を引き受け経営者となりました。

最初に建てたビルは25歳の時でした。そして、当時の高度経済成長期のビル群の需要の後押しがあり、銀座、築地地域にビルを建て続けました。

不死鳥のように蘇るという願いを込めて「フェニックスシリーズ」と命名し、精力的にマンション建設を展開しました。その時の総資産は5000億を超えました。

ところが、突然のバブル経済の崩壊によってマンション建築や不動産業は苦境に追い込まれ、私も辛い目を体験させられました。

私がなぜ建築家を志し、建築業に進んだかといいますと、それは、今大戦で廃墟となった日本国の国土に一日も早く居住やビジネス生活の拠点を作り、提供したいという気持ちからです。

その役割も、バブル崩壊期までは充分果たせたと自負しています。

◎ヨットハーバーと強制代執行

 

私は築地川の銀座8丁目にヨットハーバーを所有していた時期があります。

なぜ、ヨットハーバーを所有していたかと言いますと、高度成長期を終えて日本が豊かになった暁には、必ずやレジャーや観光の時代がやってくる、という未来に対する大いなる確信と夢からでした。

しかし、そのエリアは、いつしか東京都の築地エリアの開発地区となり、東京都から立ち退きを要請されました。首都東京にあるヨットハーバーが将来の観光の目玉となることを確信していた私は、東京都の立ち退き命令に反対の立場を貫きました。これが東京都初の強制代執行となりました。

この件に関しても、私は決して私利私欲でヨットハーバーを残そうと思ったわけではありません。行政は目先の事しか考えませんが、私はヨットホハーバーのある東京の景色が好きで、都民の憩いの場になり、観光の目玉になるものと確信していたからです。

あれから36数年の歳月が過ぎましたが、観光立国、観光の首都を標榜している今日の行政の現状を考えますと、ヨットハーバーの消失は残念でたまりません。

行政のあり方を考えるきっかけとなりました。 

◎合気道の活動と普及の重要性

 

私は大学の頃に合気道に出会いました。

以来、79歳の今日まで合気道の普及に取り組んで参りました。

合気道は植芝盛平先生の創設した武道です。

日本にはさまざまな武道がありますが、合気道は精神性を重んじ、相手を倒すということではなく、自らの護身を目的とするものであり、世界にない心身一如の身体動作を実践するものです。

こういった精神性は、私たちの生き方にも参考となるものです。

私はこういった精神性の高い合気道が子供から大人まで必須の習い事ではないかと確信し、これまで多くの門下生を育て、ビジネスの最前線に送り出してきました。

これも人のためになる活動だと信じています。

 

・合気道東銀座道場    道場長 師範

・ミャンマー合気道協会  会長

◎銀行から600億円を借りた男

 

「銀行から600億円を借りた男」と私は常々語っています。

 

バブル終焉間近の頃、ミャンマー大使館購入のため、都市銀行団から合計600億円の資金提供をいただきました。

なぜなら、この600億円は私の私利私欲のためのお金ではなく、ミャンマーの国民を救済するためのお金であったからです。

 その後バブルがはじけて、購入した大使館の資産価値600億円から26億円に暴落、その後の人生はその返済で苦しみました。しかし、今となっては私の勲章となっています。

◎建設業とものづくりの実践

 

日本の国土を脱出して、新天地に移住するということは、新たな移住地に居住空間ができ、建物群ができるということです。

私は、日大の建築学科を卒業し、建設業に従事してきました。

設計から施工までを一人でできるという稀有な能力があります。

ミャンマーの二つのホテルは自ら設計し、施工監督をして建てたものです。

こういった自らの体験からしますと、人は生きるために、いろいろな居住空間を作り出す能力を備えています。

今回の移住プロジェクトにおいては、私は、自らの生きている限りは、新しい生活の拠点づくりに協力していければと願っています。

 

◎6千ボルトに感電して生き残った男

 

中学2年生の頃、東急池上線の御嶽山駅の近くに住んでいたときの事故です。

遊びのつもりで駅近くの立入禁止区域に立ち入った時に6千ボルトの電線に接触、感電と同時に8メートルほどの高所から線路に落下。普通であれば一貫の終わりになります。

しかし、私は奇跡的に生還しました。

 

このときの体験が「救われた命をどう人のために役立てようか」ということでした。

 

あの事故が私の人生の終わりであり、始めとなる貴重な体験になりました。

私は、いつもこの事故の体験が生きる原点となっています。

今回の日本国民の移住への思いは、まさに「6千ボルトに感染して生き残った男」としての使命であり、役割であります。

 

◎友人知人に支えられて歩んできた人生

 

 

誰しも小学時代からの友人知人がおります。

私にも幼い頃から今日まで付き合ってきた友人がおります。

 

私の自慢は「明日誕生会をやるから集まって」と言って、昨日の今日であるにもかかわらず、多くの友人、知人が馳せ参じてくれることです。

 

集まった友人知人は何十年も変わらぬ付き合いです。

私の人生を振り返りますと、波瀾万丈の人生です。

人というのは良い時はたくさん集まってきますが、何かあったときには皆離れていきます。それが人間の常です。

 

しかし、私の場合は、友人知人は、変わらずにそばにいて、共に人生を歩んでくれています。

 

人のためになる活動は、こういったかけがえのない大切な友人知人に支えられての人生ドラマであるといっても過言ではありません。

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