日本人の精神文化を継承し伝えるこれまでの『ご縁』に感謝し
『恩返し』としての活動

一、赤穂四十七の義士の話・小野寺十内へのおもい             

 

この度、日本国民と日本民族を救済する活動母体として『忠臣蔵義士新党』を結党しました。

人のため、社会のためという志しには、いろいろなきっかけや手本となることがあります。

私は平成2年から赤穂四十七士の義士を追悼する祭りとして、銀座歌舞伎座前から泉岳寺までの行程の義士行列を始めました。

以来、34年間、雨の日も雪の日もこの活動を毎年続けて参りました。

忠臣蔵は「時は元禄15年12月14日、江戸の夜風をふるわせて、鳴は山鹿流の陣太鼓」と始まる大石蔵之介の率いる赤穂四十七士の義士の吉良邸討ち入りの敵討ちの物語です。

四十七士の義士はその後、責めを問われて52日後の2月4日に全員切腹しました。

主人への忠義を全うした姿は、当時の江戸幕府への反感もあって、さまざまな歌舞伎の演目となって演じられました。

そして、321年後の今日まで歌舞伎を始め、映画となって演じられ語り継がれています。

 

忠臣蔵には外伝と呼べる四十七士の一人ひとりの生きざまとしての物語があります。

 

実は、私が忠臣蔵の赤穂四十七士の義士に関心を持ったのは、ある義士の存在にあります。

私小野寺の氏を名乗る一族は、藤原家に連なる末裔で、今やその子孫は全国に広がっています。

 

ある義士とは「小野寺(おのでら)十内(じゅうない)」です。

 

主君浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけた人情沙汰の責めを負って、即日切腹を命じられ、お家断絶。その報を受け、鎧一領、篭城討ち死に覚悟で赤穂に駆けつけたのが小野寺十内です。

その後、赤穂城開場から、12月14日の討ち入りまでの間、大石内蔵助の右腕として補佐に徹し、大石力を守り支えたのが小野寺十内です。

 

この「小野寺」の姓は、私の遠き日の祖先に連なる一族の姓であります。

 

私はこの赤穂四十七士の義士の話を聞いたとき、心に激震が走り、身の震える感動が湧き上がり、涙が止まりませんでした。

こうした赤穂四十七士の義士の史実に小野寺家につながりの人物の物語がある、私は義士行列の話をいただいた時、321年の時を越えて、私へのある種のメッセージではないかと思わざるを得ませんでした。

忠臣蔵として伝えられている忠義や敬愛の心や仲間としての信頼と結束は今日においても変わらずに、人間関係を維持し、社会を成り立たせている柱となっています。

私は、一度しかない人生で、赤穂四十七士の義士の物語に関わることができたことを嬉しく思うとともに、運命を感じます。

 

今回、「忠臣蔵」と「義士」という言葉を使わせていただいて『忠臣蔵義士新党』という政治団体を設立し、発足しましたのは、まさに、四十七士の義士が命をかけて、実行に移し、守り抜いた忠義の心、人を敬愛する心を忘れずに、今日においても伝えていかなければという気持ちからです。

「いざ、出陣」

元禄15年12月14日の夜、四十七士の義士の討ち入りに臨む気持ちは、強い決意に裏打ちされたものであったことでしょう。

今再度「いざ出陣」です。

『忠臣蔵義士新党』の誕生と活動は、同じ志を共有する時を越えての決意です。

 

二、義士行列の話・34年間の活動へのおもい

 

ご縁をいただき平成2年から始めた義士行列は今年で34年目を迎えます。

34年間も続けられたのは、四十七士の義士への思いと同じ姓を持つ小野寺十内への思いからでした。

雨の日も雪の日も続けさせていただきましたのは、四十七士の義士の皆様の尊い御霊と泉岳寺の方々、警察を始めとする行政の関係者の皆様方、そして何よりも趣旨に賛同いただき、何年にもわたって義士行列に参加いただき、支えていただきました多くの皆様方の熱い思いのおかげです。

義士行列は、歌舞伎忠臣蔵にちなんで、東銀座の歌舞伎座前から泉岳寺までの道のりです。首都中央区銀座からの行列は、多くの人の目に留まる工程になっています。

私たちはこの義士行列を通じて、
義士の忠義の思いを新たに共有し、
時を越えて、志しを伝えるものです。

この義士行列が、一見、単なるイベントと見られがちですが、参加する一人ひとりの皆様は、それぞれの衣装を身に付けた瞬間に義士の魂を共有し、その気持ちで参加させていただいております。

この義士行列が、これからも義士の思いを共有しながら、末永く続いていけますことを願ってやみません。

 

三、切腹供養祭の開催

 

義士行列は、赤穂四十七士の義士が吉良邸に押し入り敵討ちを成就し、主君が祀られている高輪泉岳寺までの道のりを再現したものです。

この敵討ちは忠義の義士を称える姿として歌舞伎の演目として観客の感動を与えます。

ところが忠臣蔵には決して忘れてはならない、もう一つの重要なドラマがあります。

 

敵討ちから五十二日目に大石内蔵助をはじめ全員が切腹の命を受け、命果てたのです。

 

これが二つ目の重要なドラマです。

この切腹のドラマはあまりにも理不尽で悲しいものです。歌舞伎で取り上げるには重いテーマです。

しかし、四十七の御霊への供養という目的のためには、切腹して忠義を全うしたその日を忘れてはなりません。

ある日、突然、私に「切腹供養祭をやるように」という天のお告げが下りてきました。

これには衝撃を受けました。

考えてみれば、34年間義士行列を続けてきたにものかかわらず、切腹した日のことは単に私自身の心の中にしかありませんでした。このお告げには感動して涙が止まりませんでした。

そういうきっかけをいただき、令和5年2月5日に「赤穂四十七士切腹供養祭」を開催し、

東銀座の歌舞伎座前から高輪泉岳寺までの行程を義士行列をさせていただきました。

令和6年の切腹供養祭は築地警察署と銀座商店街の許可をいただき、銀座歩行者天国での義士行列を行うことができました。

 今後も12月の討ち入りの義士行列と2月の切腹供養祭の義士行列を車の両輪として開催し、続けてまいりたいと考えております。

 

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